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​白太さん日記
​~白太さんとたっきゅーびん~

 エブリスタ『巴市の日常(掌編あれこれ)』やカクヨム『巴市の日々【日常掌編】巴市の日常(春)』に置いている、白太さん主人公のSSです。めでたく2巻発売ということで、改めてこちらでご紹介いたします。

 ほんの少し言い回しが変えてある…かもしれない…という程度。

​ 2巻(WEB版第二部)読了後推奨です。2巻を読んで、白太さんをお気に召した方はぜひ!


「狩野さーん! お届け物でーす!」
 前庭から男の声が響いた。
 朝の空気がひんやりと心地よい季節、中庭に面した離れの濡れ縁で、とぐろを巻いて微睡んでいた白蛇は頭を上げる。
「狩野さん! って、まだ寝てるか……」
 ため息混じりの声が言って、足音が近付いてくる。のびのびと大蛇姿で眠っていた白蛇は、どこに隠れるべきか迷った。中庭は小さい上に、純白の体は、緑の中に隠れるには向いていない。慌てているうちに、母屋の脇に回り込んだ男が中庭に顔を覗かせる。
「すいません、誰か……ッ!?」
 目があって、男が固まる。
 咄嗟に、白蛇も固まることにした。微動だにせず気配を殺す。しかし、小箱を抱えた男は白蛇を見詰めたまま、ゆっくりと中庭に入ってきた。最大サイズでのんびりしていた白蛇は内心焦る。宿主の美郷には、無暗に人目に触れるなときつく言われていた。
「……置物……か? 狩野さん、かなり変な物も買うからな」
 白蛇の正面まで来た男はしばし躊躇したあと、恐る恐る白蛇に手を伸ばしてきた。
「金運下さい、なんてな」
 少し恥ずかしそうに言って、男の手が白蛇の胴に触れる。
 ――きんうん、おいしい? おやつ?

「うわっ! 喋った!!」
 辻本よりも多少年嵩の男が驚く。きんうん、と、たまに美郷や怜路も白蛇に言う。それが何なのか白蛇には分からないが、きっと良いものなのだろう。
「こっちは下宿の宮澤さんの部屋だったか。ちょっと不思議な人だが……お前は門番かな?」
 一度離した手をもう一度白蛇の胴に触れ、少し笑んで男が尋ねた。
 ――みさと、ねてる。白太さん入れない。
 夜の間散歩に出して貰ったのは良いが、美郷が日が高くなり始めても惰眠を貪っているため、白蛇は中に入れずにいた。
「そうかそうか。じゃあ、狩野さんの荷物ここに置いとくから、よろしくな。手がないお前にサインは無理だし、代筆しておくから伝えてくれ。ちゃんと狩野さんに渡すんだぞ」
 ――にもつ、おいしい? おやつ?
「はは、これは美味しくないし、他人に届いた荷物食べたらダメだぞ」
 白蛇の問いに笑って、白蛇の傍らに小箱を置いた男が何かごそごそと作業をしてから立ち去る。
 ようやく起き出してきた美郷が、大蛇姿の白蛇と傍らの小箱に気付いて、「夢じゃなかったのかよおおお!!!」と悲鳴を上げたのは、それから30分後のことだった。

 

 ***


「うはははは! そりゃあ肝の座った宅配屋だな!」
 けたけたと笑いながら、美郷の部屋に上がり込んだ怜路が白蛇の胴をぺしぺし叩く。白蛇はそれに、少し尻尾を振って答えた。

「笑い事か!!」

 一方、白蛇の宿主である美郷は文字通り頭を抱えている。結局大蛇のまま、任された荷物を大切に守っていた白蛇に、怜路はご機嫌だ。だが、白蛇の姿を見られるのが嫌いな美郷からは、繋がった心を通じて直接、恐怖と焦りが白蛇に流れ込んでいた。
「まあまあ、そう落ち込むなって。その配達員、白太さんにビビらなかったんだろ?」
「だけど変な噂になったり、他に人が来たり、ご近所に嫌われたりしたらどうするんだ」
「嫌われるほど近くに家がねーじゃねぇか」
 不安を訴えかける美郷を尻目に、怜路は「そうだそうだ」と何やら楽しいことを思い付いた顔でポケットを探る。そして、白蛇の前に小さな長細い筒を差し出した。
「ホイこれ、俺のハンコな。次に宅急便来たらコイツを出してやれ」
 言って、白蛇に「あーん」させて印鑑を口に突っ込む。
「消化するなよ、宅急便来たらそいつを出して渡すんだぞ」
 うきうきと白蛇に教える怜路の横で、がっくりと美郷が脱力していた。
「おれと白太さんがネットで大炎上したらお前どう責任取ってくれるんだ……」
「いやいや、これだけ非現実的なら配達員も言わねえだろうし、言ったところで今時誰も相手にしねーよ」
 ――たっきゅーびん、またくる?

 ちなみに、実際に先日怜路が使った宅配の商標名が『宅急便』なわけではないのだが、そんな事情を白蛇が知るはずもない。白蛇にとって『たっきゅーびん』とは、白蛇を恐れず、荷物を任せてくれた配達員のことだった。
「おお、俺が使うネット通販、大抵あの運送会社使うからな。けど流石に他の奴が来たら隠れろよ?」
 自分を撫でて、荷物を任せてくれた「たっきゅーびん」を白蛇は気に入っていた。次は、怜路に貰った「はんこ」を使うのだ。

 

 ***


 運送会社の配達員、戸田の担当地区には不思議な家があった。
 そこは巴市街地から離れて県道を山奥へ入った場所で、かつては十数戸の集落だったようだが、今では殆ど空き家という侘しい地域である。その空き家の一軒にここ一、二年で、若い男が二人引っ越してきていた。
 そのうちの一人、家主の狩野という男が好んでネット通販を使うため、戸田がこの不可解な家に来る頻度も高い。明らかに堅気でないいでたちから、最初は危険人物でもやって来たかと思ったが、なんでも都会から越してきた拝み屋だという。耳に入る噂によれば本物の実力者らしく、思いのほか信頼され、受け入れられているようだ。
 そして、狩野が越して来てから一年後、もう一人住人が増えていた。狩野が「下宿人だ」と言った新顔は、更に不思議な青年だった。白く秀麗な面と丁寧に括られた長い髪が少々人間離れして見える美青年だが、柔和で愛想が良く、狩野不在の時には代わりに荷物も受け取ってくれる。特徴的な髪型とひとつひとつの動作が優雅な立ち居振る舞いが、狩野よりも「霊能者」のイメージに合う男だった。
「狩野さーん! お届け物でーす!」
 無駄を承知で大きく呼ばわる。庭に彼のセダンは停まっていない。型の古そうな小さな軽自動車だけが庭の端に寄せてある。下宿人、宮澤の車だ。
(今日は人間が出てきてくれるかな?)
 先日、ここで白い大蛇と遭遇した。以前岩国で白蛇神社に行ってからというもの、戸田は白蛇の美しさと可愛らしさが気に入っている。拝み屋の家ならそんなものも居るのだろうと妙に納得してしまい、前回は白蛇に荷物を預けてしまった。
 果たして蛇がきちんと荷物を渡してくれたのかも確かめたいので、人間に出てきて欲しいのが半分、白蛇をもう一度見たいのが半分と複雑だ。
「それに……」
 呟いて、手首に引っかけたレジ袋を見遣る。まあ、何も直接渡す必要もないかもしれないが。
 今回も中庭に回る。前回は巨大な白蛇が真っ先に目に飛び込んできたが、今日は居ないようだ。少し落胆してから奥へ声をかける。
「すいませーん!」
 はぁい、と遠く声が返り、ガタゴトと人の気配がする。下宿人の宮澤が今日は起きていたらしい。途中「うわっ」と悲鳴が上がって、何やら言っていたが聞き取れなかった。
 こつん、と不意に近くで音がする。どこで鳴ったのかと辺りを見回すと、縁側の端、アルミサッシのガラス戸の向こうで、カーテンの隙間から何か覗いている。白蛇だ。
 今日は常識的な大きさの白蛇が、戸田と目が合うと大きく首を伸ばして鼻先でガラス戸を叩いた。思わず戸田は、引き戸に手をかける。鍵がかかっているだろうと思ったのだが、予想に反してカラリと軽く引き戸は開いた。すかさず細い隙間に身を滑らせた白蛇が、取っ手にかけていた戸田の手に頭をのせる。
 ――たっきゅーびん!
 嬉しそうな第一声に思わず笑う。
「今日も狩野さん宛だけど、前のはちゃんと渡してくれたか?」
 よしよし、と親指の腹で頭を撫でて尋ねる。うん! ととても良い返事が可愛らしい。
 ――白太さん、たっきゅーびんもらう。りょうじ、ハンコくれた。
 言って、白蛇が頭を引いた。なにやらモゾモゾと胴から首をくねらせて、口から何かを吐き出す。浸透印……俗にシャチハタと呼ばれるアレだ。
「狩野さんから預かったのか」
 驚きながら、浸透印を受け取っているとざっ! とカーテンが引かれて、人の姿が現れた。宮澤だ。
「こらっ! おれが居るんだから出なくていいって言ったろ、全く!」
 真っ先に白蛇を叱った青年が、戸田と目があった瞬間に頭を下げる。
「すみません!!! その、コイツ悪さはしないんで! 見逃して頂けますか!!」
 必死の声に慌てて頷き、頭を上げるよう頼む。
「いえ、こっちこそすみません」
多分、見ても見ぬふりをするべきだったのだ。相手は明らかに人知を超えた存在である。分かっていたのに勝手に触ったのは戸田の方だった。
「僕が勝手な真似をしただけですから。叱らないでやってください、ハンコも頂きました」
 言って、受領印を捺す。戸田に返された浸透印を手に、青年はポカンと戸田を見た。青年に叱られて奥に逃げていた白蛇が、再びひょっこりとカーテンから顔を出す。
「そうそう、あと……すみませんコレを。ご迷惑だったらアレですが、白蛇くんに」
 言って差し出したのは、手首に掛けていたレジ袋である。言われるまま袋を受け取った青年が、中を覗き込む。
「……たまごぼうろ?」
 前回、白蛇はしきりに「おいしい?」「おやつ?」と言っていた。何か白蛇の気に入りそうなものを、と頭を捻ったのだが、どうしても「おやつ」という単語に発想が引きずられて安い駄菓子を買ってしまった。気に入ってもらえるか不安は残る。
「ええ、実はこないだ白蛇くんを触らせて貰った後に、ちょっと思いつきで少額のロトを買ったんですが、これがちょろっと当たってしまいまして」
 一等などではない。十万に満たぬ、ほんの丁度良い小遣いだった。家族で旅行をして、美味しいものを食べて無くなる額だ。だが、やはりお礼参りはしておきたい。
「白蛇くんの食べ物は分からなかったんで、勝手に選んだんですが……卵とかなら食べるかなと思って」
 蛇と言えば卵、たまごのおやつでたまごぼうろという連想だった。
 ――おやつ? おやつ??
 再び戸田の手に頭を乗せた白蛇がはしゃぐ。
 ――白太さん、たべていい?
 その言葉に、如何とも言い難い表情で青年が口を開きかけた。同時に返事をしかけた戸田に、青年が譲る。
「食べてもいいぞ。これは君宛ての荷物だからな」
 そう言ってやると、頭の上で青年がくすりと笑いをこぼした。
「良かったな、白太さん」
 普段のへらりとした笑みとは違う優しく美しい微笑みは、まるで自分のことのように白蛇のおやつを喜んでいる様子だ。
「ありがとうございます、でも、これきりにして下さいね。コイツにそんな特別な力はないですし、こういうモノと、あなた方のような普通の人が深く関わるのは良いことではないですから。……でも、凄く喜んでますよ」
 嬉しそうに、そしてどこか寂しそうに笑って、青年は頭を下げた。はい、と素直に頷いて戸田は狩野の家を後にする。確かに、下心を持って何度も接してよい相手ではないのだろう。迷惑はかけないようにしなければ、と、戸田は気持ちを改めた。

 ***


 白蛇――白太さんにせっつかれて、美郷はたまごぼうろの袋を開ける。美郷は甘いものが得意でないため、たまごぼうろを欲しいとも思わない。白蛇も当然、もののけを食べる妖魔なのでたまごぼうろは栄養にならないだろう。だが「おやつ」と大喜びしている白蛇と、折角の頂き物を無下にもできない。そんなことを考えながら、ちょうど、標準サイズ白蛇の一口大なぼうろを蛇の口に放り込む。
「美味しい?」
 ――おいしい!!!
 感動に目を輝かせて、白蛇が高らかに返事した。予想外の反応に美郷は驚く。思わず自分も口にしたが、当たり前のたまごぼうろだった。だが白蛇は早く次をよこせと騒ぐ。
 夢中で食べる白蛇にテンポよくぼうろを放っていたら、いつの間にか袋の中身は半分になっていた。
「白太さん、そろそろやめにして、また明日にとっとこうな」
 白蛇がこの程度で腹を壊すとは思えないが、折角のおやつが一日で消えるのも勿体無い話である。
 ――なんで?
「ホラもう半分だよ? 明日も美味しいおやつ、食べたいだろ? 今日全部食べると明日の分がないぞ」
 袋を白蛇の目の前にかざして言うと、中身の減った袋の前で白蛇が固まる。
 ――おやつ、なくなる?
「食べればそりゃあね」
 ――やだ!!
 駄々をこね始めた白蛇は、最終的に美郷から袋を奪いどこかに隠してしまった。今まで見たこともない、同居人の様子に美郷は困惑する。己の半身である白蛇の心を探ろうとして、気付いた。
(そうか……あの配達員さんの『心』が美味しかったんだな)
 菓子そのものの味ではない。白蛇のことを想像し、白蛇の喜びそうなものを考え、選んでくれた。その、菓子に籠った想いを、白蛇は味として感じ取ったのだ。
「……白太さん、どれだけ大切に食べても、いつかそのおやつは無くなるけど……次を貰おうとして、何かしたら駄目だからね?」
 自分のために籠められた想いは、白蛇にとって初めて味わう甘露だった。だが、それを求めて白蛇が、他人の前に姿を見せたり、ましてや見返りを求めて何かするようになるのはとてもまずい。これだけは絶対に釘を刺しておかねばと、美郷はきつく戒める。
(白太さんの心は、おれの心と同じものだ。この蛇を認めて、可愛がってくれる他人が、そんなに嬉しいのか……)
行きずりの、赤の他人。相手がただの一般人だからこそ。
「あー……しょっぱい。これは相当しょっぱいよ白太さん……」
 気付くのではなかった。
 美郷は頭を抱えた。

 ***


「で、結局どうしてこうなった」
 呆れる怜路の前では、白蛇が空になったたまごぼうろの袋の中にうずくまっている。
「いや、なんか毎日一個ずつ、凄く大切に食べてたんだけど……流石に開封したお菓子がそんなに長くはもたないし……」
 完全にスネている白蛇を前に、困り果てた様子で美郷が頭を掻いた。結局、完全に駄目になる前にと、無理矢理に全部食べさせたらしい。外道である。否、相手が「自分」と分かっているから出来た真似なのだろう。
「美郷ォ、そりゃある種の自傷だぜ?」
 心底憐れみを込めて、怜路は下宿人を見遣る。
「だって……」
 と沈んだ顔をしている貧乏公務員は、結局白蛇と同じくらい落ち込んでいるのだ。あれから暫く、かの配達員とは縁がない。
「よしよし可哀想になあ白太さん。俺の買ってきたおやつはいかが?」
 袋をひっくり返して白蛇を取り出し、鼻先に真似をして買ってきたたまごぼうろを差し出す。躊躇いがちにそれを飲み込んだ白蛇は、しばらく固まってからプイと横を向いた。
 ――ちがう。これじゃない。
「ンだよ傷付くゥ。俺の愛だって本物よ白太さん」
 そういうことで無いのは理解しているが、多少面白くない。今度は気まずさにうちひしがれている相棒に、「そんじゃあ」と怜路は声をかけた。
「明日の夕方また荷物来るんでよろしくなー」
 ビビりの美郷は、心を許してしまった先の先の最悪の事態を恐れて怯えているが、何もそこまでと怜路は思う。適切な距離を保てれば、心温まる異種間交流だ。
 えぇ、と困惑する美郷を置いて、怜路はたまごぼうろ片手に離れを出た。

 

 ***


 今日はたっきゅーびんが来る。そう白蛇に教えた美郷は、散々迷った挙げ句に白蛇を濡れ縁に出した。ひんやりした木陰で休みながら、小さめサイズで白蛇はたっきゅーびんを待つ。美郷からは『おやつのお礼を言いなさい』と言われていた。
「こんばんはー狩野さーん?」
 待ち望んだ声に、白蛇はしゅるしゅると向かう。
 家の影から顔を出した白蛇をみとめ、たっきゅーびん――戸田がにこりと笑った。家の前に出た白蛇は、軒先に置かれたエアコン室外機にのぼって戸田へ首を伸ばす。
「やあ、白太さん……だったか。元気にしてたか?」
 ――うん。白太さんげんき。でも、おやつなくなった。かなしい。
 空になってしまったぼうろの袋が思い出され、白蛇はしょんぼりと項垂れる。次をねだっては絶対に駄目だ。美郷にはそう約束させられた。
「おやつ、美味かったか?」
 ――うん!
 そうかそうか、と嬉しそうに戸田が白蛇を撫でる。
「本当はダメなんだろうから、コレは秘密な?」
 そう少し笑って言った戸田は、ポケットに手を突っ込み、甘い匂いのする桃色の玉を取り出した。
「飴玉だ。食えるか?」
 鼻先に近付けられたそれを、ぱくりと食べる。甘くて優しい、ふんわり眠たくなるような味がした。
 ――おいしい!
「そうかそうか、良かった……これは、餞別なんだ」
 目を細めた戸田が、ポツリと言った。
「餞別の意味は、宮澤さんに聞いてみな」
 そう向けられた笑顔の淋しさに、白蛇はただ事でないと直感する。
 ――美郷! 美郷!!
 白蛇は問答無用で宿主を呼ばわった。美郷は白蛇に荷物を任せただけで、家の中で待っている。
 ――美郷! きて!!
 必死の求めに、遠くで物音がする。すぐに慌ただしく美郷が駆けつけた。
「白太さん!? あっ、どうも……」
 戸田に頭を下げる美郷に、白蛇は問う。
 ――せんべつ、なに!?
 すると美郷は目を丸くして戸田を見た。
「えっ……辞められるんですか?」
「ええ、いえ、一応休職ですが……多分」
 歯切れ悪く答える戸田に、美郷の表情が険しくなる。
「……なにか、僕たちがご迷惑を――」
「いやいや、一身上の都合……病気が発覚しましてね。長く入院するかもしれないもんで」
 ――にゅういん、わるい?
 戸田は「にゅういん」のせいで来なくなるらしい。尋ねた白蛇に、戸田が苦笑した。
「入院は悪くないんだよ。悪いのは……病気だ」
「失礼でなければですが、何のご病気を?」
 躊躇いがちに美郷が問う。それに戸田がうつむいた。
「大腸に腫瘍が。まだこれから内視鏡で検査ですが、十中八九悪性腫瘍……癌、だろうと」
 それは、と美郷が言葉を詰まらせる。そして白蛇が何か言う前に、白蛇の胴を掴んで自分の首に巻き付け、戸田と引き剥がした。
「そう、だったんですか……それはご心配ですね……。ええと、お大事になさってください。色々、ありがとうございました。また復職されるのをお待ちしてます」
 低く真剣な声音に、戸田も深々と頭を下げる。結局荷物は美郷が受け取って、美郷と白蛇は共に戸田のトラックを見送った。
 ――みさと。
「うん?」
 ――がんって、わるい?
「善悪は無いよ。でも、戸田さんにとって良いものじゃないだろうね」
 ――みさと、がん嫌い?
「……そうだね、嫌いだな」
 ――たっきゅーびん、もうこない? がんのせい?
「……そうだね……」
 ――みさと。
「駄目だよ白太さん。駄目だ」

 

 ***


 この世の終わりのような顔をして、下宿人が悩んでいる。白蛇もろとも落ち込んでいるせいか、半端なく空気が陰鬱だ。おまけに白蛇の食欲まで落ちたらしく、敷地に好き放題もののけが跋扈してそれはそれは酷い有り様だった。
「おおい、いい加減腹ァ括れよ。どんだけ待っても割りきれねーんならよ」
「だけど怜路、それはルール違反だろ? おれも白太さんも神様じゃない。踏み込んじゃいけない場所じゃないか」
 白蛇ならば、おそらく戸田の病も「喰って」しまえる。だがそれは人ならざるモノの力ゆえ、戸田の天命をねじ曲げてしまうことだと美郷は恐れているのだ。
「そんな面倒に考えるなよ」
金髪頭を引っ掻き回して、美郷の寝間に胡座をかいた怜路は言った。
「確かに、白太さんが病気を消しちまうのは『奇跡』になるかもしれねーが、その奇跡は、オメーらが起こすモンでもねえと俺は思うぜ?」
 怜路の言葉に、美郷が顔をあげる。意味を図りかねた様子の表情に、怜路は続けた。
「言っちまえばチープだが、結局『出会ったことが奇跡』ってヤツだろうよ。白太さんにとっちゃガンを消すくらい何でもねーことで、どこの誰にでも何回でもできる当たり前のことだ。けど、ガンになりかかった人間が、頃合い良く真っ白い大蛇に出会うのも、そいつが大蛇に動じない肝っ玉持ってンのも、なかなか無ェことだろう。そういう大した偶然が……結局のところ『縁』がそいつの命を救うなら、それこそが『天命』ってモンだろう。天命なんざオメーごときが弄れるようなモンじゃねぇから安心しとけ」
 だからとっとと行ってこい。
 怜路の視線に押されるように、美郷が立ち上がって駆け出した。

 

 ***


 まずは検査から、という予定でとうとう入院の日を迎えた。与えられたベッドに荷物を運び込み、手続きに付き添ってくれた妻が家へ帰る。四人部屋だが幸いにも空きがあり、部屋の患者は二人だ。そしてもう一人の患者も夕方にはどこかへ出てしまい、戸田は一人病室に取り残された。
 明日、内視鏡で腫瘍の一部を切り取り、悪性度を判定する。結果次第で本番の手術の規模や、今後の治療が決まるようだ。当然今日は絶食で、食べ物で気を紛らわすこともできない。じりじりと腹の底を焦がす不安と恐怖に、今夜は独り闘わなければならなかった。
(ああ、誰か、神様仏様……)
 どうかどうか、大変な悪性腫瘍ではなく、良性ポリープ程度でありますように。今までの所見から、その可能性は低いと言われている。それでも何かにすがって祈って叶うのならば、何にでもすがりたい心持ちだった。
(誰か、何か……)
 不意に、白い大蛇が脳裏に浮かぶ。
 素直で可愛らしい、真っ白な蛇だ。とびきりのおやつを用意してお願いすれば、あるいは。
(駄目だ! 彼が言っただろう。ああいう生き物に、下心を持ってはいけない。あの子を汚してはいけない)
 ただただ、愛らしさ美しさに心を寄せて、何か与えられれば感謝をする。それ以上踏み込むのは禁忌だ。その感覚は、幼い頃に父母や祖父母から教えられたものだ。迷信、と呼ばれる感覚だとは分かっているが、それでも戸田にとっては「正しい感覚」だった。
(ああ、だけど白太さん、口には出さないからせめて祈らせてくれ……)
 神々しい純白の大蛇と、それを従える神秘的な青年に。

 

 ***


 早々に布団を被り、白蛇を思い浮かべて目を閉じていた戸田は、微睡んでいたところを病室の戸を開ける音に起こされた。同室の患者かと思ったが、静かな足音が戸田のベッドの傍らまでやってくる。
「戸田さん」
 静かな声で呼ばれ、戸田は布団を剥いで体を起こした。まさか、と目を丸くする。
「宮澤、さん……?」
 どうしてここが、と問いかけて、微笑みひとつで黙らされる。普段とは違う、凄みとどこか妖艶さまで纏う青年に気圧された。
「これはおれと白太さんの我儘で、だから貴方の『今後』にまでは全く責任を取れない。本当に身勝手な行動です」
 言って、青年がシャツの襟を寛げる。
 第二ボタンまで外されたシャツの首もとから、ぞろりと白蛇が這い出した。蛇は青年の身体から出て、ベッドの上にぼたりと落ちる。屋外で昼寝をしていた時とは全く印象が異なる、まさしく蛇の魔物が、戸田のベッドを這っていた。初めて背筋がぞわりと粟立つ。
「戸田さん」
 静かな声が呼んだ。
「今度こそ、きっとお別れです。だから……蛇が苦手になったら、その時は躊躇わず嫌いになってください」
 ほんのりとした青年の苦笑いを合図に、白蛇が戸田の身体にとりつく。反射的に逃げようとしたが、金縛りにあって指一本動かない。声も出せないまま怯える戸田の懐に、白蛇が潜り込む。
 かっ、と臍の辺りが熱を持った。むずむずと熱が腹のなかに入り込む。はらわたを内側から撫でられるような奇妙な感覚に、戸田は力の限り身を捩ろうとした。しかし体はぴくりとも動かない。
 ――がん、わるい。がん、たっきゅーびんとる。みさと、がんきらい。白太さん、がんきらい。
 ずきん、と下腹に差し込むような痛みが走る。
 痙攣した戸田に目を細め、青年が白蛇を呼び戻した。
「白太さん、綺麗に食べたなら出ておいで」
 それに応えて、白蛇が戸田のへそからずるずると這い出す。恐ろしい光景に言葉もなく、戸田はただ震えて――いつの間にか、意識を失っていた。
否、つぎに目覚めた時には青年の姿は影も形もなく、あれは夢だったのか現実だったのか、戸田には分からなくなっていた。
 ただ、ひとつ間違いないのは、翌日の検査の結果、戸田の大腸にあったのは良性ポリープだったという結果だけだ。

 

 ***


 結局、入院のために仕事を辞めていた戸田は、妻の実家のツテで九州の運送会社に早々と再就職が決まった。本当に、何かに導かれるようなトントン拍子で、やっと振り返る暇が出来たのは引っ越して一年経とうかという頃だった。当然、あの後狩野家に立ち寄るような機会も暇もなかった。
「お父さん、何作ってるの?」
 休みのたび、部屋に籠り、何か作るようになった戸田に、娘が尋ねる。なにしろ素人の手習いゆえまだまだ拙いそれを、娘に見せるか戸田は迷った。
「ねえねえ、あれっ、白蛇?」
 無理矢理覗き込んだ娘が首を傾げた。真っ白い石を彫った蛇である。本当は鱗の一枚一枚まで精緻に彫って、真っ赤な石を両目に嵌めてやりたい。だがまだまだ技術が追い付かず、ようやっと途中で割らずに蛇の形にできるようになったばかりだ。
「これって、お父さんを助けてくれた白蛇?」
 あの日の不思議な出来事を、妻と娘には話してある。夢か現か分からない出来事だったが、最悪の想像までしていたであろう戸田の妻子は、素直にそれを信じて共に喜んだ。翌日の検査結果には、担当医も狐につままれたような顔をしていたので、やはりあれは『奇跡』の類だったのだろう。
「ああ、そうだよ。いつか……」
 いつか、理想どおりの像が彫れたら、巴に持っていくのだ。どんなお礼をすれば良いか思い悩み、戸田が出した結論だった。白蛇に貰った時間を、白蛇のために。今後一生をかけて、コツコツと石像を彫るつもりだ。
(また、喜んだところが見たい)
 無邪気な音無き声と、白くて丸い頭を思い出す。人生の終わりにもう一度見れたら最高だ。
 戸田はそれを楽しみに、今日も白い石を削る。


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